朝日新聞がまたもや過剰反応している「今回の」残業代ゼロ法案ですが、いやはやどうも。
この法案に対するスタンスというのは基本的に過去のわたしの記事(ホワイトカラーエグゼンプションに対するジレンマ)のそれとかわりません。
ただ、残業代ゼロに過剰反応する人たちがあまりにもちょっと・・・、で、見てられないので、指摘しておくべきはことは指摘しておきたいと思います。以下、特に注釈がない限り、労働時間で賃金を支払うことが適当ではないと思われるホワイトカラーの話です。
「労働時間」がもたらす呪縛
まず、これからの大前提のお話として、現在の労働基準法を遵守しようとすると、日本の労働者の賃金というのは労働時間という媒介なしに決定できません。
どういう意味かというと、会社というのは社員の給与を、仕事の内容や業績、役職、そしてもちろん会社の予算等を元に、各々の考えに基づき給与を決めているわけですが、しかし、仕事の内容や役職だけでは賃金を決定できないということです。
一部例外を除き、必ず仕事内容や役職などの他に、労働時間を考慮しないといけないのです。これは、労働時間と労働量がほぼ比例するブルーカラーに限らず、労働時間と労働量が労働者によって大きく変わるホワイトカラーも同様です。
実は、仕事の内容や業績、役職だけで賃金が決まるのなら、ことは単純なのです。会社はそれに見合う給与を支払えばいいだけですから、仕事のできる人間はより高い給与を得、できない人間の給与は当然低くなります。
しかし、そこに労働時間という概念が混じってくると途端に混乱が起こります。労働時間は増えれば増えるほど労働者の給与は増えるからです。そして、仕事のできる人間は仕事のできない人間よりも労働時間が短くなるのが普通。給与と残業代の額によっては、まるで徒競走でみんな同時にゴールするかのように、両者の間に給与の差がなくなってしまうわけです。
また、そうした労働者に残業代を支払うということは、会社からしたら支払う給与が増えることにほかなりません。会社が支払う給与の大枠の予算というのは決まっていますから、残業代によってその予算を超えないよう、ある程度、労働者ごとに支払う残業代を見込んで基本となる給与を低く抑える必要があるわけです。
つまり、残業代の存在が、隣の彼や向かいの彼女よりも優秀なあなたの給与を上げてあげたい会社の気持ちにブレーキをかけてしまっているのです。
残業代がなくなれば仕事のできる人間はより高い給与を得、できない人間の給与は低くなる、というのは、もちろん、適正な人事評価がなされていることが前提です。そのためには、労働者がよりよい労働環境を選べるだけの労働市場の流動化も必要です。
まあ、なんにせよ、ホワイトカラーという労働時間で賃金を決めることが適当でない職種で残業代を欲しがる人というのは、大した人間じゃないことだけは確かだということだけ思っていただければよいと思います。