土曜日は軽め、…と毎週のように書いているが本当に軽い気持ちで書いてるのでしょうがないんですよ。
で、なんでも、2年前に世間を大いに騒がせたあの佐村河内氏のドキュメンタリー映画が公開されるらしいです。
監督の森達也氏についてはオウム真理教を題材にした「A」が良くも悪くも有名で、わたしも昔、大学の視聴覚室で観たけど面白かった。
人工知能と著作権
で、実は、今日の本題は佐村河内氏でも森達也氏でもなく、昨日に引き続き人工知能なのです。
人工知能が発展していくと、人工知能は言語すら理解するようになると言われていますが、その過程で、人工知能自身が、文章を作成して小説を書いたり、曲を作ったりするようになるのはある意味必然です。というか、そうした人工知能はすでにできてきていて、
人工知能が作成したものの著作権まで、専門家のあいだでは問題になっているようです。
現状の法律では著作物を「思想または感情を創作的に表現したもの」と定義しているため、人工知能が作成したものが著作物として認められる可能性は低いようですが、では、人工知能が作成した著作物を自分のものだと主張する人間が現れた場合はどうなのでしょうか。
つまり、人工知能に音楽や小説を作成させ、それを隠したまま自分の著作物として発表する人間が出てきたとき、その場合の人工知能は、それこそ佐村河内氏にとっての新垣氏のようなゴーストライター(冒頭の話とつながった)に当たらないのか、と思うわけです。
人工知能と人間が手を組んで不正を行う可能性
人工知能の著作物を人間のものとして偽る、みたいな不正は、オンラインゲームなどでも起こりえます。
例えば、カードゲームのように思考時間の長いゲームでのオンライン対戦で、相手にわからないように人工知能に「ここどうしたらいいかな」と聞いて、人工知能の言うとおりに行った場合、それは不正に当たるのかどうなのか。
プログラムをいじっているわけではないので、チート(改造)とはいえないものの、頭脳のドーピング(無理やり時事ネタを入れていくスタイル)と言えなくもありません。
人間社会は人工知能をどう受け入れていくか
Alpha碁がプロ棋士に勝利し、人間を超えたと話題になっていますが、実際の人工知能と人間の関係というのは、戦うことではなく、互いに協力しあうことが基本となるはずです。
しかし、そうした協力関係を悪用する人間が現れたとき、そして、そうした悪用に耐えうるだけの発展を遂げた人工知能が現れたとき、今まで存在しなかった問題が発生する可能性があるわけです。
だから、人工知能はいけない、という気は、わたしはさらさらないというか、むしろそういうことが起こったら楽しいなあ、と脳天気に思っているくらいなのですが、とはいえ、無用なトラブルが起きないためにも、今のうちから、人間は人工知能をどのように受け入れていくのか、考えていく必要があると思います。